父があの時死ななかったら、今とは違う今があるのだろうか
お彼岸は、彼岸と此岸が通づるというのは、
本当なのかもしれない、いや本当なのだ。
お彼岸の中日たるも、
仏壇に手を合わせることもなく、
お墓参りをすることもなく
(母に誘われたが行かなかった)
息子氏たちと賑やかに過ごしたわけだが。
日頃は思考の奥深くに仕舞い込んでいることが、
ふと頭の中をよぎるとは不思議なものだ。
ちなみに、個人的な感覚として
ご先祖様と疎通するのは
お墓でも仏壇でも仏事でもなく、
日常だと思っている。
2011年7月に父は他界した。
もうかれこれ15年近く経つのか。
あの頃は、至って冷静というよりも、
父の病気に向き合うこともせず、
死んじゃうなら会社どうにかしなくちゃ。
が、先立っていたと思う。
父が闘病していなければ、
夫と結婚すらしていなかっただろうとは、
当時2人でよく話をしていた。
社長になるタイミングだって、
もっともっと後だっただろう。
仮に同じタイミングで社長になっていたとしても、
父がいればどこかで頼りながらというより、
責任逃れをしながら過ごしていたかもしれない。
逆に、自分の思うがままに
会社を導くことができなかったかもしれないし、
親子の摩擦もひどいものだったのではないだろうか。
なので、私の性格上、
頼れる(責任を押し付けられる)父がいない、
強制的な環境で会社経営をせざるを得なかったことは、
ポジティブだったと捉えてはいる。
私の頑固な性格は父譲りだし、
一緒に仕事をした6年の間は
殴り合いに近い喧嘩も散々した。
今も父が生きていたとしても、
日々喧々諤々、
美しい親子の姿なんてちっとも見えない。
あの時父が死んだから今がある。
それは変えようもない事実。
息子氏たちが、今ここにいるのも、
あの時父が死んだからなのだ。
もはや、父と酒を酌み交わすことはできない。
もっと話をしておけばよかった、とも思っていない。
基本冷酷な娘なのだ。
でも今、無性に父と話がしたい。
今、彼岸を近くに感じている。
お酒を飲みながらこれを書いていたら、
なんだ、飲みすぎたではないか。